LOGIN第71話 父が守った研究番号は、最初から私の名前でした
父の証拠保全庫を開く権利が私にあると分かっても、画面へ表示された「開封」の文字を、その場で押すことは許されなかった。保管庫には冬真の救命手順だけでなく、AUR患者の診療記録やC由来細胞の設計情報が含まれている可能性があり、私個人の権限で全てを閲覧すれば、裁判所が凍結した研究資料へ、久瀬製薬の大株主である私が直接触れたと主張されかねなかった。
「私の名前を指定して残されたものなのに、私が読めないのですか」
「読めないのではなく、開封手続へ第三者を入れる必要があります」と芙美は答えた。「お父様が澪さん個人へ残した手紙であれば、誰にも許可を求めず読めますが、証拠保全庫という形を選んだ以上、私的な遺品と訴訟資料が混在しています。後から、都合の悪い記録を削除した、あるいは、灯さんの十五パーセントを守るためCに関する証拠を隠したと言われないよう、開封時点から記録を残したほうがよいです」
「正しいのは分かりますが、父の言葉を読むためにも、会社と裁判所へ見られなければならないことへ納
第78話 娘の株を守るため、手術直後の患者へ証言を頼めと言われました 灯の十五パーセントを患者へ渡すべきだという記事が広がってから一時間もたたないうちに、病院の代表電話だけでなく、産科病棟の受付や新生児集中治療室の家族専用回線にまで取材の電話が入るようになった。 病院側は、患者の安全と治療環境を守るため、私と灯に関する問い合わせへ一切答えないと発表し、入館証の確認も厳しくした。しかし、病院が何も話さないことさえ、「久瀬家から口止めされているのではないか」という記事に変わり、正面玄関へ集まった記者たちは、見舞客や退院する親子へまで声をかけ始めていた。 私の病室の窓から玄関前は見えなかったが、取材車のアンテナだけが、隣の建物の屋根越しに何本も突き出ていた。灯が自力で呼吸を続け、手術を終えた倉橋さんが集中治療室で生きようとしている同じ日の景色としては、あまりに騒がしく、誰かの命より、それをどういう物語にすれば多く読まれるかを競っているように見えた。「明日の退院時刻は公開しません。地下の職員用通路から車へ乗れるよう病院側と調整しますが、病棟内に紛れ込まれる可能性もありますから、澪さんと朔也さんは、許可のない訪問者へ対応しないでください」 警備責任者の説明を受けながら、私は、退院のために畳み始めた衣類をベッドの上へ置いた。家へ帰る支度をしているはずなのに、手に取るものは全て、灯を残して自分だけ出ていくための荷物に思え、着替え一枚を鞄へ入れるにも、娘へ言い訳をしているような気持ちになった。「記者から聞かれても答えないことはできますが、灯の財産を守る理由まで隠せば、私たちが十五パーセントを自分たちのために抱え込んでいるという話だけが残りませんか」「話すとしても、院内ではなく、代理人を通してください。記者会見を開く場合も、澪さんの退院後に、安全を確保した場所で行うべきです」「会見はしない」と朔也が答えた。「記事を一つ訂正するために灯の病状を公表すれば、次からも、世論が騒ぐたび、娘の身体について説明を求められる。株を守るために、治療記録を代金として払うつもりはない」「何も話さなければ、あなたが都合の悪いことを隠していると書かれますよ」
第77話 娘を病院へ残して退院しろと言われた日に、十五パーセントまで奪われそうになりました 倉橋怜さんを乗せた搬送車が病院へ着いたという連絡は、翌朝の六時を少し過ぎたころに届いた。手術前の検査で新たな感染所見は見つからず、予定どおり午前中から手術へ入れる見込みだと真奈が読み上げたとき、私は安心したというより、自分たちが一晩かけて動かした金が、ようやく誰かの身体へ届いたのだと実感した。 灯の配当を緊急融資へ回す手続を終えたあとも、私は何度か、あれは本当に正しかったのかと考えた。返済条件も担保も付け、患者救済という言葉だけで子どもの財産を差し出したわけではないが、灯は貸してもよいとも、嫌だとも言えない。私たちが、娘なら困っている人を助けるはずだと決めつけてしまえば、冬真が私へしたことと形が似てくるため、契約書へどれだけ条件を書き加えても、迷いがきれいに消えることはなかった。 朔也は窓際の小さな机へノートパソコンを置き、個人口座から患者緊急基金へ送金した記録を、芙美と真奈へ送っていた。昨日、灯の金だけを使わせないと言った約束を果たしたのだろうが、振込額を確認する画面を私へ見せようとはせず、送信を終えると、仕事用の端末を裏返して机へ置いた。「いくら出したのですか」「灯の融資額と同額だ。緊急基金は、一人を助けたあとに空になる仕組みでは意味がないから、今回返ってくるまでの間、次の患者へ使える金を残した」「なぜ、私へ相談しなかったのですか。個人資産であっても、今は、あなた一人だけの生活ではないでしょう」「相談すれば、君は半分出すと言うだろうし、今の君が自由に動かせる金は、治療と、退院後の警備と、灯が病院へ残る期間の生活へ使うべきだと思った。ただ、その判断を俺が勝手にしてよいわけではなかった。振り込んだあとで言うのは卑怯だが、反対なら、一部を戻す手続はできる」「戻してほしいとは言いませんが、私が反対しにくいところまで進めてから、選ばせた形にしないでください。善いことへ使った金ほど、返せと言う側が悪く見えるので、相談を省く道具になりやすいです」「分かっている。昨日、灯の金を動かすときには全員へ条件を確認させたのに、自分の金なら自由だと思
第76話 娘の最初の配当を、知らない患者の命へ使いました 灯の最初の配当を治療費へ使ってほしいと申請した患者は、二十八歳の倉橋怜という男性だった。 AUR研究へ登録されたのは十年前で、当時の説明では、先天性の免疫異常に対する長期観察と治療支援を受けるだけのはずだった。しかし、本人へ知らされないまま心筋細胞を採取され、D細胞との反応試験へ使われた結果、通常の移植待機患者とは異なる管理が必要だと判断され、久瀬製薬の補償対象になっていた。 今回の心機能低下が研究によるものか、もともとの疾患によるものかは確定していなかったが、どちらであっても、会社は治療費を負担すると過去の和解で約束していた。 それにもかかわらず、患者補償基金は、財団への違法な資産移転を止めるため一部が保全されており、通常の入院費や薬代は支払えても、緊急の補助循環手術と専門病院への搬送費を、数時間以内に用意できない状態だった。「会社が払うと約束した治療費を、なぜ灯の配当で立て替えなければならないのですか」 暫定協議会が始まると、私は最初に尋ねた。 会議には、灯の独立代理人である岸本、患者側から選ばれた美月と奈緒、医療者、補償基金の管理者、従業員代表、財務専門家が参加し、久瀬家からは私と朔也が、議決権のない説明者として加わった。「補償基金に金がないわけではありません」と財務専門家が答えた。「ただし、大口の緊急支出は、現在の保全命令では、裁判所の承認か、独立管理人二名の署名が必要です。管理人の一人が国外におり、電子署名の確認に最短でも一日かかります。一方、倉橋さんの受入先は、今日中に費用保証がなければ、別の患者へ手術枠を回す可能性があります」「制度上の手続が間に合わないため、赤ん坊の金を使うのですか」「その表現は正確です」と奈緒が言った。『言い方が厳しいから避けるのではなく、実際に、灯さんの財産を使う話だと全員が認識するべきです。患者を助けるためという目的を先に置けば、反対する人が冷たいように見えます』 私は、今すぐ支出を認めたいと思っていた。灯の配当で人が助かるなら、使ってよいではないかという気持ちがあり、娘の財産を他人へ差し出せ
第75話 父親欄が空白の夫は、初めて娘を抱きました 冬真の全計画が開示された翌朝、灯は、外部ペーシングを三十分停止する試験を受けることになった。 補助装置そのものを外すわけではなく、心拍が設定値を下回れば自動的に再開するため、直ちに危険な状態へ陥る試験ではないと説明されたが、私には、娘の心臓が自分だけの力で動けるかを確かめる三十分に思えた。「灯さんは、これまでにも短い時間なら、自律した心拍を維持しています。今回は、その時間を延ばし、呼吸状態や血圧へ変化がないか確認します」と篠崎医師が説明した。「数字だけを見ていると、わずかな変動も悪化に見えますから、保護者の方は、モニターを監視し続けないほうがよいと思います」「見ないでいれば、数値が悪くなりませんか」「澪さんが見ているかどうかで、灯さんの心拍は変わりません」「分かっていますが、見ていないときに下がれば、自分が目を離したからだと思う気がします」「それは、医学的な因果関係ではなく、親としての罪悪感です。罪悪感が生じることまで止められませんが、その感情を、灯さんの状態を決める力だとは考えないでください」 正しい説明をされても、私はモニターから目を離せなかった。緑色の線が一拍ごとに立ち上がり、数字が一つ変わるたび、自分の身体より細い何かで、娘とつながれているような気がした。 朔也はモニターを見ず、保育器の脇に置かれた椅子の高さを調整していた。金属製の脚が床を擦る音へ看護師が振り向くと、彼は小さく頭を下げ、音を立てないよう持ち上げて移動させた。「あなたは、心拍が気にならないのですか」「気になるから見ないようにしている。俺まで数字を監視し始めれば、二人で一拍ごとに騒ぎ、篠崎先生から退室させられる」「私は騒いでいません」「声に出していないだけで、さっきから数字が下がるたび、俺の袖を掴む力が強くなっている」 言われて初めて、私は朔也のシャツを握っていたことに気づいた。手を離すと、布には指の形どおり深い皺が残り、朔也は伸ばそうともせず、そのまま椅子へ座った。 試験開始から十分を過ぎても、灯の心
第74話 亡夫が残した全計画は、娘の十五パーセントを患者へ返すものでした 冬真が定めた七十二時間の開示期限は、灯の出生時刻から数えるものではなかった。私の炎症値が治療基準を下回り、灯の自発心拍が外部刺激なしで一定時間続いた時点を、母子生存の確認時刻としており、真奈が医療記録と研究口座の動作履歴を照合すると、期限までは二十一時間しか残されていなかった。「二十一時間後に、何が起きるのですか」「開示対象者へ、それぞれの個人記録が自動送信されます」と真奈が答えた。「澪さんだけではありません。灯さんの独立代理人、七海さん、朔也さん、現在確認されているAUR患者十一名、治療へ関与した医療者、患者補償基金の監督者が含まれています。ただし、全員へ同じ資料を送るのではなく、本人に関係する記録と、研究全体の説明書が分けられています」「患者本人へ知らせる仕組みまで冬真が作っていたのなら、なぜ生きている間に説明しなかったのですか」「開示条件を、研究が成功したあとに設定したからです。Aと母体が生存しなければ、全計画は公開されず、個人研究口座とともに削除される予定でした」「成功すれば説明し、失敗して私と子どもが死ねば、誰にも知られないようにしたのですね」「設計上は、そうなります」 冬真は、結果が良ければ自分のしたことを告白し、結果が悪ければ、私たちと一緒に証拠まで消えるようにしていた。生き残った私へ選択肢を返す仕組みに見せながら、選択できる時期を、自分の望む結果が出たあとへ移している。「死んだ人間へ、今さら卑怯だと言っても返事はありませんね」「返事のように見える記録は残っていますが、それを本人との会話だと思わないほうがよいでしょう」と真奈が答えた。「分かっています。それでも、彼の説明を読みながら言い返すと思います。返事がない相手へ怒るのは、無駄だからやめられることではありません」 芙美は、自動開示をそのまま実行させる前に、個人情報の振り分けが正しく行われるか確認する必要があると話した。冬真の設計を信用し、患者の記録を一斉送信した結果、別人の生殖情報や病状が混ざれば、被害を広げることになる。一方、確認
第73話 夫と義母から作られた胚は、すでに私の血液へ入っていました 雅世と冬真の細胞から作られたAUR‐011‐00が、今も残されている可能性を聞いたとき、私は、それを人として想像することができなかった。冬真の母親の卵子と、冬真自身の細胞から作られた存在を、灯やCと同じように、まだ生まれていない子どもとして考えればよいのか、それとも、人の発生過程だけを利用した研究組織として考えるべきなのか、どちらを選んでも、目の前の事実を自分が理解しやすい形へ押し込めることになる気がした。「確認させてください」と篠崎医師が言った。「ここに記載された冬真さんの細胞とは、精子ですか。それとも、体細胞から作られた多能性細胞ですか」 雅世は、自分の前へ表示された提供記録を読み直した。『冬真の精子ではありません。皮膚由来の細胞から作った人工生殖細胞と記載されています。私の卵子についても、通常の受精に使われたのではなく、核の一部を除去したうえで、冬真の細胞情報を導入したと説明されています』「つまり、母親と息子が通常の方法で子どもを作ったわけではありません。遺伝的に近い二人の細胞を組み合わせたことは事実ですが、何をもって胚と記録したのか、どこまで発生したのかを確認する必要があります」「通常の方法ではないと説明すれば、異常ではなくなるのですか」と朔也が尋ねた。「なりません。ただ、強い言葉だけが先に広がれば、実際に何が作られ、誰の同意が侵害されたのかが見えなくなります。私は、この場でAUR‐011‐00を、あなたの兄弟や、灯さんの叔父や叔母とは呼びませんし、単なる細胞とも決めません」「決めなければならないことばかり増え、名前を付ける前の存在だけが、また保存されるのですね」「だからこそ、今すぐ廃棄することも、今すぐ人として扱うことも避けます。記録と現物の状態を確認するまで、こちらの嫌悪感や同情へ結論を合わせるべきではありません」 篠崎医師の言葉は正しかったが、正しいから聞きやすいわけではなかった。冬真と雅世から作られたものが人ではないと早く決めれば、気味が悪いと感じた自分を正当化できる。反対に、一つの生命だったと考えれば、研究した者を残酷







